2020


ーーーー3/3−−−− チャランゴの修理


 チャランゴという楽器を習っている。毎月一回、長野市でレッスンを受けるのだが、ある時先生がおぞましい物を見せてくれた。それは壊れたチャランゴであった。胴体の尻が割れて、その付近の響板もろとも剥がれて本体から脱落していた。何故そのようなものをわざわざ見せてくれたのかと言えば、チャランゴを落とすとこのような事になるという教訓を示したかったそうだ。その楽器は、皮製のケースに入れてあったのだが、このように割れてしまったと。胴体が割れれば、弦によって強く引っ張られているブリッジが、周囲の饗板を破断させてしまうのだ。弦の張力は、かように大きなものだと、実感させられた。

 それからだいぶたった、昨年末のこと、その壊れたチャランゴを貸して欲しいと、申し出た。割れた部分から胴体の中が見え、胴の板厚も分かるので、チャランゴ製作の参考になると思ったのである。そう、私は将来自分でチャランゴを作ってみたいと思っている。

 無残に壊れたチャランゴは、しばらくの間机の上に置かれたままだった。これを修理してみようという気も無くはなかったが、壊れた直後ならいざ知らず、だいぶ年月が経っているようなので、木の破断面がピッタリ合わない可能性があると思った。木材が割れた場合、その破断面がピッタリと合うならば、接着剤の効果は大いに期待できるが、木が動いてずれが生じると、難しくなる。

 今年に入って半月ほど経った頃、急に修理を思い立った。割れて脱落した部分を接着剤でくっ付けるのである。ひとことで言えばこうなるが、簡単な事ではない。接着をする際には、接着剤が固まるまでの間、圧力をかけて保持しなければならない。圧力をかけるにはクランプを使うのだが、胴の裏側が曲面なので、そのままではクランプを掛けられない。それなりの仕掛けを作らなければならないのである。

 接着剤は、エポキシ系を使うことにした。接着力の強さもさることながら、隙間を埋める効果(これを空間充隙率と言う)が大きいので、接合面がピッタリと合わない恐れがある場合には有効である。二液混合タイプであるが、正確に等量を混ぜないと、所定の強度が出ない。以前、接着剤メーカーに電話をして訊ねたら、許容される誤差は3パーセント以下だと言われた。以前は、グラム以下の軽量をするのは難しかったが、今では高性能のデジタル秤があるので、許容誤差をクリヤーできる。

 さて、接着作業が終わり、修理は完了した。見かけは継当てのようでみすぼらしいが、一応チャランゴの形は復元された。問題はこの後弦を張って、強度がもつかどうかである。

 チャランゴの弦は、5コースで計10本である。それらを全て張って、少しずつ巻き上げる。一気に強く張るとバリンと壊れそうな気がするので、少しずつ様子を見ながら張力を増すのである。様子を見ながらというのは、数日から十数日間のオーダーである。張りを強めると、ブリッジに力がかかり、響板のネック側が凹み、尻側が膨らむ。それはどのチャランゴでも同じことだが、この修理品は特にその傾向が大きい。弦を巻き上げるに従って、変形が次第に激しくなる。そんな状況なので、一気に張りを強くして、所定の音程まで上げる度胸は、私には無い。

 最終的に、一音低い設定でチューニングを終えた。これ以上張ると、ぶっ壊れるか、そうでなくても響板の歪みが大きくなって、具合が悪くなると思ったからだ。やり過ぎたら元も子もない。ここら辺は木工家の勘である。さて、チューナーに合わせて音を正しい高さにするのだが、一日経つと下がっている。一般的にギターなどもそうであるが、弦を張り替えた直後は、弦が伸びるために、しばらくの間音が下がる傾向にある。それでも、一週間もすれば、安定するものだ。今回は、一ヶ月ちかくかけて、ようやく落ち着きつつある。弦の伸びだけでなく、響板の変形が影響しているのだと思われる。

 ようやく安定した状態になり、楽器として使えるようになった。一音低くチューニングしても、弦の張りが少々緩いだけで、演奏上はさしたる問題は無い。むしろこの楽器は、この音程において音色が良いように感じる。

 修理したチャランゴが使えそうな感触を得たので、レッスンの折に持参して先生に見せ、譲って貰えないかと相談をした。そうしたら、只でくれると言われた。有りがたい事だと恐縮したが、遠慮なく頂戴することにした。

 友人の家に遊びに行き、酒を飲んで宴会をし、持参したチャランゴを演奏することがある。これまでは本番で使うまともな楽器を持って行ったのだが、さすがに躊躇することがあった。酔って正体を無くし、楽器を壊してしまう恐れがあったからだ。また、山に登って演奏するということを試みたこともあった。そういう場合も、まともな楽器では、事故に対する不安があった。

 今回のいきさつで、二台目のチャランゴを手に入れることができた。荒っぽく扱って良いというわけではないが、自分が修理した楽器なので、気兼ねなく使えるのが嬉しい。

 見た目には不細工で、正規のチューニングではない、しかしけっこう音は良いチャランゴ。これを携えてどこかへ出掛け、自由気ままな演奏をやって自己満足に浸りたいと、新たなヴィジョンが沸いてきた。




ーーー3/10−−−  レットイットビーの意味


 私は中学校の頃、ビートルズの活躍と時期が一致していて、リアルタイムでビートルズの新曲をラジオで聴いたものであった。当時「9500万人のポピュラーリクエスト」なる番組があり(その当時は日本の人口は9500万人だった)、その番組のランキングの上位を、ビートルズが独占したこともあった。初期の彼らの作品は、圧倒的に新鮮で、存在感に溢れ、思春期の私をとりこにした。

 その後年月が経つにつれ、ビートルズの作風は変化していった。それが私には不満であり、失望だった。最後に出したシングル盤の曲「レットイットビー」は、巷ではたいへんな評判を得た曲であるが、私はこれもビートルズらしくない作品だと、不満だった。「レットイットビーなんて、ビートルズが歌ったから人気が出たんだ。他のミュージシャンが歌っていたら、誰も見向きもしなかっただろう」 などと周囲の者に語ったりした。

 先日、別に意図したわけでもなくテレビ番組で歌謡ショーを見た。女性の演歌歌手が「レットイットビー」を歌っていた。その歌詞を字幕で見て、突然閃光に射されたような感覚になった。

 それまで、この曲のテーマである「Let it be」というのは、「なるようにまかせようぜ」という、あの時代のヒッピー文化に象徴される、既成の価値観に背を向け、投げやりで無気力な、厭世的な観念だと思っていた。ところが、今回は違った意味を受け取った。この「Let it be」は、キリスト教的なメッセージではないかと感じたのである。

 困難や苦境に陥ったときに、あれこれあがきもがくよりも、穏やか気持ちで神に委ねなさいという意味ではないだろうか。そして、「母のメアリーが授けてくれた知恵の言葉」という歌詞のメアリーは、聖母マリアのことではないか。

 調べてみたら、私の予感は的外れでもなかったようである。国内のサイトと、英語版のサイトでいくつか検索してみたら、この曲が宗教的意味を持つという見解と、全くそうではないという見解の両方が現れた。

 この曲を作詞作曲したのはポール・マッカートニーであった。ポールは歌詞の意味について、「自分が悩んで落ち込んでいた時に、夢の中に亡くなった母親が出てきてメッセージをくれた」と述べたそうである。ポールの母の名前はメアリーであった。歌詞の中のメアリーに関して問われたときにポールは、聖母マリアと捉える人がいても、それは構わないと言ったそうである。

 宗教的意味は無いとする人たちは、曲を作った本人の動機がそれと無縁であることを根拠にする。宗教的意味があると言う人々は、作者の意図はどうであれ、それを導いたのは宗教的な背景であると主張する。

 宗教的な議論に於いては、180度違う意見がぶつかるということがよくある。宗教を肯定する立場の人々は、いわば強引に物事を宗教に結び付ける。反して無宗教を唱える人々は、生理的嫌悪感とも言える態度で宗教色を否定する。

 ともあれ、欧米のキリスト教圏に生まれ育った人間が、教会の礼拝や聖書の言葉に影響を受けているというのは、まず間違いが無いところであろう。ある解説によると、キリスト教圏の人々なら、この曲の歌詞を聞いたとたんに、聖書の場面を思う浮かべるのでは当然ではないかと述べていた。

 聖書の中に「let it be」という言葉が存在する。受胎告知された聖母マリアが、天使に向かって「御言葉の通りになりますように」という下りがあるが、そこにこの言葉が使われているのである。

 ポールが夢の中で聞いた「let it be」という言葉。彼の母親がどういう意味で言ったのかは、ポール自身にも分からないだろう。ポールという名前は、キリスト教の聖人パウロにちなんでいると考えられるから、ポールの母親が敬虔なクリスチャンであったことも想像に難くない。

 この曲が世界的に大ヒットした背景には、そのような事情があったのだと思う。宗教的な素養が無かった若かった頃の私には、そのような事を知るよしもなかった。しかし今では、この曲が違った響きで、私の心に入ってくる。

 数十年の隔たりを経て、私の中でこの曲が復活した。たまたま女性演歌歌手が歌ったのを聴いて、このような展開になったとは、まことに不思議な導きである。




ーーー3/17−−− ベンケーシーの時代 


「ベンケーシー」という名前を聞いて、懐かしさを感じ、しばしうっとりするのは、私と同年代か、年齢が上の方々だろう。1960年代に放映された、米国製のテレビドラマである。

 医者もののドラマである。「♂ ♀ * † ∞ 」という記号(正確には三つ目の記号には横線が入っていた)が黒板にチョークで書かれ、ナレーションが「男 女 誕生 死亡 そして無限」と告げる。そして病棟のドアがバーンと開き、患者を乗せたストレッチャーが緊迫した様子で廊下を走る。患者が見上げる病院の天井が、目まぐるしく移動する。その一連の映像が、毎回の冒頭であった。それはかなりのインパクトであった。

 脳神経外科医のベンケーシーが、様々な症例に遭遇し、手術を通して解決していくというのが基本的なパターンだった。外科手術のシーンのリアリティは、かなりのものだったが、ただそれを見せることを売りにするような番組ではなかった。医師と患者が心を通わせ、病魔に立ち向かうという、ヒューマンドキュメントとも言うべき真剣なストーリーが、毎回展開されたのである。まだ小学校のガキだった私ですら、深い感動を覚えたものであった。

 あの時代の、テレビに関わる人々の、一つの情熱の現れであったと、今振り返って思う。同じ時期に、ジャンルは様々にしろ、人間性を追及するドラマが、いくつもあった。いずれも真摯な姿勢が貫かれ、安っぽい言い方で恐縮だが、道徳教育のような雰囲気があった。テレビを通じて、世の中を変えて行きたいという理想が、貫かれていたように思う。

 時代は変わり、今ではそのような「押し付けがましい規範」とも取られるような番組は消え去ってしまった感がある。ストレートで愚直なほどの真剣な表現は、現代では疎まれるのだろう。アハハと笑って済ませる軽い内容、どうとも取れるイージーな表現が、視聴者に受ける時代になったのか。

 大衆にとって、テレビというメディアの役割が変わってきたのか。普及し始めてからたかが60年程度のことなのに。




ーーー3/24−−− 使い難くなったスマホ


 
およそ半年前にスマホを新しくしたことを、以前記事にした。最新のスマホは性能が良く、便利だと書いたが、近頃そうでもない気がする。それまで使っていた機種と操作方法が違い、そのうち慣れるだろうという見通しとは逆に、イライラが募ってきたのである。

 それまで使ってきた機種というのは、7年ほど前に購入したものだから、相当旧い。そんなものと比べて文句を言うのは筋違いとの指摘も聞こえてきそうである。しかし、以前の方が便利だったという印象を持っているユーザーがいるという事は、見過ごして欲しくないと思う。

 検索の履歴の確認や、サイトをお気に入りに登録するなど、以前の機種だったらパソコンと同じ感覚でできた操作が、やたら面倒なのである。また、コピー、ペーストの操作もやり難いし、キーパッドの配置も、細かいところで使い難い。

 しかも、いろいろな操作が、記号化されたアイコンで表示されているので、わけが分からない。それがオシャレということかも知れないが、文字での表示が無いので、とにかく不便。しかも説明も無い。試行錯誤であちこち押すしかないが、その不条理感は相当なものである。

 その一方で、やたらとオプションの画面が登場したり、IDの登録を求められたり、煩わしい。余計な事は抜きにして、シンプルですっきりと前に進めたいと思っても、なかなかそうさせてくれない。

 昔のままで良かったのにと思う。何故わざわざ使い難く変更するのか?

 ひょっとしたら、私の理解力が不足していて、正しい使い方をマスターしていないのかも知れない。しかし、半年経っても使い方が分からないという商品も、ちょっと問題ではないか。操作方法を知ろうと思ってネットで調べても、バージョンや型式の差によって、微妙に操作方法が異なり、解決策に辿りつけない。不愉快がつのって、途中であきらめることもしばしば。

 何故このようにユーザーを不快にさせることが、まかり通っているのだろうか。バージョンを変える際に、新しい事(操作法)を盛り込まないと、付加価値がアップせず、お客に対してイメージダウンになるという発想か。その新しい操作法が、ほんとうに改良された使いやすいものなら歓迎だ。しかし実際は、マニア的、オタク的な方向に向かっており、私のような年配者で、実質的な分かり易さが第一のユーザーにとっては、不健全な方向性としか思えないのである。

 



ーーー3/31−−− 息子の新居


 
息子が松本に引っ越してきたので、新居を訪ねた。松本駅から徒歩20分弱の所にある、6階建マンションの最上階である。

 昔から商工業地域だった場所に、マンションが建ち出したという感じである。眺めはすこぶる良好で、東に美ヶ原、鉢伏山、西に乗鞍岳、そして常念岳から白馬岳まで連なる北アルプス。常念岳のすぐ左には、槍ヶ岳の穂先もちょこんと見えた。

 近くに商店街のようなものは無いが、ちょっと離れた場所には大型スーパーが4件ほどある。これまで住んでいた東京都品川と比べても、生活に関する不便はほとんど無いと。その一方、静か過ぎるくらいだと言う。東京で最後の一年ほど住んでいたマンションは10階だったが、すぐ下に第二京浜が通っていて、夜中でも車の音が絶えなかったそうである。

 新しい職場は、市内の中高一貫校。歩いても20分以内で行ける距離である。薄川の土手を歩いて行くことになるが、その辺りは桜の名所である。薄川と言えば、夏には大規模な花火大会が開催される。新居から目前にそれを眺めることになるだろう。

 新居は十分な間取りのスペースがある。その割には、家賃が安いと息子は言う。東京でこれくらいの広さのマンションに入ろうとしたら、普通の勤労世帯では無理だろうと。

 息子は、東京に住み始めてから数年間は、安アパートに住んでいた。商店街の裏の、迷路のような住宅密集地域で、ひとたび地震や火災が起きたら生存は難しいような場所だった。地震が起きるなら学校(職場)に行っている間にして欲しいなどと、冗談交じりで言っていたものだった。松本に越してきたことで、私も安心したというのが正直なところである。

 勤め先があるなら、松本のような地方都市で暮らすのも良いものだと思う。自然環境は豊かだし、人的環境にしても、東京のような殺伐感は無い。東海トラフや首都直下型地震のような自然災害は予想されていないし、仮に天災が起こっても、大規模なパニックに陥る恐れは、大都市に比べればはるかに少ない。

 地方都市で、世相や流行に惑わされずに、のんびりゆっくりとした時間を大切に暮らすというライフスタイルが、だいぶ前から提唱されている。それが実現して行けば良いと思う。東京で生まれ、二十歳過ぎまで東京で暮らしてきた私だが、今では信州の生活に、何とも言えない、おおらかな自由を感じている。